専門的な本

15 novembre 2013

ロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』

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電子ブックリーダーを買った。
以前はタブレット端末でKindleの無料本を読みあさっていた。ところがタブレット端末ではバッテリの持ちとか、気になるところも多く、またガジェット好きな知人からKindleペーパーホワイトの話を聞かされ(実はこのおススメがいちばん大きかったのだが)、じゃあ一台という気持ちになった。
たまたま三省堂に紙の本(紙の本という言い方もおかしな話だ)を買いに行ったとき、そこに展示されていたLideoという電子ブックリーダーをいじってみて、これでじゅうぶんじゃないかと思ったのである。で、その場で買ってしまったのである。さほど高額な買い物ではない。スペックなどを比較検討したり、口コミを調べたりして深く悩むこともなく即決した(その辺の自分の性格というのがある意味恐ろしくもあるのだが)。
三省堂は高校入学前に教科書を買いに行った本屋である。当時はまだ木造の本屋然としていて神田らしい風情があった。いろいろと思い出も多い。Lideoが三省堂になければおそらく衝動買いをすることもなかっただろう。ブックファーストやジュンク堂だったら買わなかったかも知れない。逆に三省堂にソニーのリーダーが置いてあったらそっちを買っていたかも知れない。
僕は三省堂のファンなのだ。
今、マス広告よりも知人や友人のおススメが効くと言われている。意識的にアンバサダー、つまり推奨者=ファンを見出し、おススメをソーシャルネットワークなどで広めてもらうマーケティング手法が注目されている。この本ではそんなシステムの有効性と活用法が紹介されている。
義理人情浪花節的商売が普通だった日本人の感覚としてはごく当たり前のことである。おススメが効くから、システマティックに商売に取り入れましょうよ、なんて大真面目に書かれてあると笑っちまうのである。
ちなみにこの本は紙の本で読んだ(やっぱり紙の本で読んだという言い方はへんだと思う)。
Lideoを友だちにおススメするかと訊かれたら、それは微妙だ。

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01 octobre 2013

クリス・アンダーソン『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』

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さて。
前回のつづきを書こうかどうしようかと思っているうちに3ヶ月近くたってしまった。
実はこの間いろんなことがあって、あまり本を読むこともなかった。まったく何も読まなかったわけではないんだけど、活字がするすると身体の中に入っていかない。蕎麦がのどにつかえるような、そんな日々が多かった。
週に2冊の本を読んで、週2回ブログに上げることを課題にしていた時期もあった。800字程度を目標に。インプットとアウトプットのバランスをとることは健康的でもあった。
最近はどうかというとあまり過度に自分を律することはしないでし自然の流れにまかせようと思っている。読みたいときに読む、書きたいときに書く。これがいい。
もちろん仕事もこんな感じかというとそうでもなく、頼まれたCMの企画やPR映像の構成などはそれなりにこなしてきたし、かたちになったものもある。やらされればやるのだ。
クリス・アンダーソンのこの本は昨年の秋に読んだ。
アトムの世界の革命をビットが支えていてる。ビットが構築した仮想現実より、アトムがかたちづくる現実世界のほうにものづくりのよろこびはあるというわけだ。レーザーカッター、3Dスキャナ、3Dプリンタなど、道具の進歩とマスカスタマイゼーション化されたモノを所有する満足感がこれからを支える。読んでいてわくわくしてくる。
特にこの3ヶ月読みたい本もなかったので積み上げられていた本の山の中から引き抜いてぱらぱらとページをめくってみた。
以前のように頻繁に更新することもないだろうが、とりあえずこのブログもここからリスタート。これまで読みためてしまった本もあるし、この先細々ながら読んでいく本もあるし。近郊の町を散策するように続けていけたらと思っている。
それにしても今年の夏は暑かった。暑い暑いと言っているうちに秋が来た。この間、南房総に三度行った。お盆と父の納骨と彼岸の墓参り。
海は夏の匂いを残しつつ、ゆるやかに秋に変わっていく。

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08 juin 2012

ピーター・シムズ『小さく賭けろ』

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東京六大学野球がまた盛上がりそうだ。
昨年甲子園で優勝した日大三のエース吉永が早稲田、4番の横尾が慶應、そして主将畦上が法政、高山が明治、捕手の鈴木が立教と主力がそろって進学した。いきなり春からレギュラーで活躍するどころの騒ぎではなく、高山があわや首位打者、吉永は最優秀防御率、最多勝でふたりがベストナインに選ばれた。桐蔭出身早稲田の茂木もベストナインとなり、1年生が3人選出されたのは史上初ということだ。畦上はさほど出番にめぐまれなかったが、横尾は中軸をまかされ、打率2割に満たなかったものの早慶戦でホームランを放ち、長打力のあるところを見せつけた。たしかに斎藤佑樹ら世代にも注目選手は多かったが、今年の1年生は史上最強かもしれない。
先々の話を今からしても仕方がないが、明治の高山は今季20安打だった。このペースならいまだ破られていない先輩高田繁の通算127安打越えも夢ではあるまい。またベストナインの最多選出も高田繁で7回。今季選ばれた1年生3人はこの記録を更新する資格を得たということだ。
つい野球の話が長くなってしまったが、この本は過去の大きな成功体験から得るものよりも小さな失敗からすばやい学習を繰り返すことで導かれた成功をスターバックスやアマゾンなどの豊富な実例で紹介している。企業が陥りがちな硬直化をいかに回避して成長を続けるか、そんな柔らかい視点をくれる本である。

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28 juin 2008

ミシェル・アルベール『資本主義対資本主義』

中学生の頃は建築家になりたいと思っていた。
高校生になって、いくつかの教科でその方面に進学することが甚だ困難であるとわかって、文科系に転進した。勇気ある撤退だ。
そこで考えた。
文科系といっても何学部に行けばいいのか。そもそも工学部建築学科、みたいな具体的過ぎる目標イメージがあった割には、文科系学部に関してはほとんど無知で、いろいろまわりに訊いてみると法学部、経済学部、商学部、文学部などがあるらしい。今も大して進歩していないが、当時、世の中のことって複雑で面倒に思えたので、法律とか経済って難しいのだなと敬遠した。結局小学生の頃、よく先生に作文を褒められていたことを思い出し、文学部をめざすことにした。

そんなこんなでいまだに経済とかビジネスに関する本はほとんど読まない。この『資本主義対資本主義』は、たまたま先日読んだ成毛真の『本は10冊同時に読め!』の中でもっとも感化された本の一冊として紹介されていたので興味をそそられたのだ。
今は市場経済が世界の大きな潮流になっているが、そのきっかけとして著者はレーガン、サッチャー政権の税制改革をとりあげている。とはいえ、ヨーロッパにはヨーロッパの資本主義があり、アメリカを中心としたアングロサクソン型(さらにはネオアメリカ型)経済とヨーロッパを中心としたアルペン型(さらにはライン型)経済とに資本主義を細分化し、冷戦時代には模糊としていた資本主義の系譜を明快にして論をすすめるあたりは面白い。
著者はフランス人だが、大きくドイツ対アメリカという図式を用いながら、フランス資本主義のアイデンティティを問い直すというのが本旨なのだろう。思うに、本書の資本主義のベースにあるのは工業化社会である。工業主体の産業構造のみ着目したならば、日本もドイツも国土や資源の問題を考えると国家的プロジェクトで工業化社会が生後復興の第一義であったろう。フランスをはじめとしたラテンの国々やさらには中南米、アフリカは必ずしも資本主義=工業社会ではない。農業や水産業も含めて資本主義を問い直すとき、さらなる軸が見出せるような気もする。

翻訳はおそらく原文忠実になされているのだろう。機会があれば原書と見比べたいところもあった。翻訳というより同時通訳に近いのでワールドニュースの原稿を淡々と読むような気分で読んだ。
よく翻訳もので気になるのは、縦書きなのに「上に書いたように」とそのまま訳されていたり、原書が執筆された時点が明快でないまま「○○年前」みたいな記述をそのまま訳出していることだ。大学院の授業ならそれでよいだろうが、出版物とするなら配慮が必要だ。

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13 juin 2008

リチャード・フロリダ『クリエイティブ・クラスの世紀』

昨日の夜、うちの玄関にヒキガエルがいた。
壁をよじ登ろうとしていた。インターホンでも押そうとしていたのだろうか。
ちょっと声をかけてみたら、どうやらうちの前、バス通りをはさんだ向かいの小学校がこんど統合されるということで解体工事がはじまり、今まで居ついていた敷地内の池に居づらくなったそうだ。それでもってどこかいい棲みかはないか探しているという。うちの玄関でも庭でも居てくれてかまわないが、池があるわけでなし、夏場は玄関のある北側も日が当たるから、どこか近くの神社か公園でも訪ねたらどうかと言ってやった。やれやれまったく住みにくくなったなこの辺りも、とぐじぐじ文句を言いながらヒキガエルは闇のなかに消えていった。
怖がり屋の長女は梨木香歩とか好きで読んでいるわりには、この手の生きものが好きではない。ヒキガエルが玄関にいたと言ったら、明日外に出られない、学校にいけない、と騒いでいた。

ぼくは広告の仕事をしているので「クリエイティブ」とタイトルにある本はつい手にしてしまうのだが、この本は広告コミュニケーションの本ではなく、現代アメリカ社会がかかえるさまざまな問題を指摘し、世界に冠たる超大国アメリカの地位を保持し、さらなる経済発展を遂げるためのヒントを提供するれっきとした学術書だった。クリエイティブとは広い意味で知識労働者ということらしい。
いわゆる9.11のテロ以来、アメリカは経済的発展を促すテクノロジー(技術)、タレント(才能)、トレランス(寛容性)の3つのTのうち、トレランスにおいて他国、他地域と水を開けられつつある。カナダ、オーストラリア、スカンジナビア諸国、インド、中国が世界の才能を集め、あるいは自国の才能を呼び戻しているという。そんなこんなでいずれアメリカは大きなしっぺ返しを食らうのではないかというのが著者の懸念である。
まあ、アメリカは腐ってもアメリカだろうとぼくは思ってるんだけど。っていうかもう腐りすぎてる?

朝、新聞を取りにいくついでに家の周りを丁寧に眺めまわしたが、ヒキガエルは見つからなかった。住まい探しの旅に出たのかもしれない。幸運を祈る。

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18 août 2006

デイヴィッド・オグリヴィ『ある広告人の告白』

何を思ったか、突然甲子園で高校野球が観たくなった。会社を休んで早朝ののぞみに乗った。かれこれ40年近く野球を観ているが、甲子園は初めてだ。その巨大さ、暑さに圧倒されながら準々決勝の2試合を観た。
興奮覚めやらぬ帰りの車中でデイヴィッド・オグリヴィの『ある広告人の告白』を読んだ。これはもともと1964年に出版され、最近新版が出されたものの翻訳で広告の世界では古典といっていいのかもしれない。
デイヴィッド・オグルヴィはオグルヴィ&メイザーという広告会社を作ったコピーライター。アメリカの広告クリエイティブを支えてきただけあって、もの言いがシャープでストレートだ。もちろん、60年代のアメリカの広告界がどのような状況だったかをぼくは知る由もないが、成長するアメリカ消費社会とその中での生き残りをかけた広告人の強い姿勢を感じる。
広告会社の経営手法、クライアント獲得の秘訣からクライアントと広告会社とのあるべき関係構築にはじまって、成功する広告キャンペーンの作り方、コピー作成法、写真とイラストレーションではどちらが効果的か、さらには視聴者を動かすTVCM、自ら携わったクライアントから学んだ「食品」「観光地」「医薬品」キャンペーンのポイントと現代にも通ずる部分の多い広告クリエイティブの教科書といえる。
実をいうと広告の仕事に携わっているとはいうもの、日頃あまり広告の本は読まない。ましては古典(と決めつけてしまうのは失礼だが)には縁遠い生活をしている。オグルヴィに限らず、ドイル・デーン・バーンバックやレイモンド・ルビカムなど広告人の教養として読んでおかなきゃいけないんだろうなあ、ちゃんと。

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07 mars 2005

天野祐吉『広告論講義』

先日ある大学で講義を受け持った。「広告における絵コンテの役割」という内容のものである。知の大衆化などといわれて久しいが、単なる経験談ではなく、学問としての広告、その制作過程のツールとしての絵コンテという話がしたかったが、やはり終わってみれば、単なる経験談になってしまったと思う。
ぼくたちが実際にコマーシャル制作にたずさわりながら思うことは、テレビコマーシャルは忘れられる広告であるということだ。時間軸をもつ媒体の宿命なのかもしれない。後に戻ってもう一度視ることは原則としてできない。だからこそ忘れらない広告をつくろうと努力する。あるクリエーティブディレクターの言を借りれば「読後感」ということになるだろう。
天野祐吉のいう面白い広告=時代の空気や気分を記録しているジャーナリズム表現とは実に言い得て妙である。そしてすぐれた広告制作者はそんなことをまったく意識することなく表現している。むしろ彼らは今の時代にないもの、そのうちにやってくるかもしれないものを描いているだけなのだ。たぶん。
風俗や流行現象を追いながら時代との整合性を説き明かしていく著書は多い。この本も当然その部類に入ると思う。ただ天野祐吉の著作のすぐれたところは、こうした分析を客観的に語るように見せながら、実は自身の広告論、広告に対する夢や希望を主観的に語っていることではないか。彼のそうした揺るぎないスタンスがあるからこそ、あたかも20世紀の広告にずっと寄り添っていたかのような語り口で語れるのではないかと思う。
天野祐吉は広告評論家であると同時にストーリーテリングに長けた広告観察者であり、なによりも広告の好きな翁なのだというのがこの本から受けたいちばんの印象だ。
(2002.8.7)

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06 mars 2005

富野由悠季『映像の原則』

この本は氏のアニメーション制作にたずさわってきた30年余の経験から導き出された映像作品制作の原則(もちろんそれ以前からあったものであるが)をテキスト化したもので、特徴的なのは必ずしもアニメーションだけに通じる話ではなく、実写やCGも含めた映像作品全般を対象にしていることだ。
たとえばカットの方向性(上手下手の意味合い)や速度の原則だったり、もちろんイマジナリラインのことも解説されています。シナリオからコンテをつくる上での留意点などためになる話が随所に見られる。
たとえばこんなことを書いている。

>>マンガのように読めてしまうコンテは、作品として完成品に近いのではないかと感じられるのですが、よく考えてみてください。マンガのように読めるコンテは、その段階ですでに読む人の想像力が入り込めるまでのものを描いてしまっているということで、コンテそのものが完成品に近いのです。そのようなものには、映像作品を設計していくプランニング(この場合は、動きを想定した展開ということになります)の要素などはふくんでいませんから、コンテではないのです。マンガのように読めてしまうコンテは、映像作品を設計していく機能はふくまれていないと考えるべきなのです。<<

文章そのものは経験を積んだおやじのがんこ話で、叱責あり、愚痴あり、反省ありではっきりいって読みやすい本ではない。それに誤植も多い。でもそれもまあ、富野由悠季のキャラクターなんだと思えば、映像世界でがんばろうと思っている若者たちへの愛情とも読めるかもしれない。
(2002.8.5)

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12 février 2005

荒俣宏『図像学入門』

荒俣さんは、以前講演を聴いたこともあり、本はあまり読んではいないけれども僕が強い関心を寄せる作家のひとりだ。

この『図像学入門』は、昨年の8月に「夜中の学校」というマスコミ文化人志向の若者をねらったミーハー深夜テレビ番組で放映されたものの講義録である。

たぶん荒俣フリークであれば、基礎知識のじゅうぶんなおさらいができるだろうし、荒俣さんのことをあまり知らない人(フクスケも帝都物語も)でもじゅうぶん理解できる内容になっている。

彼の説く図像とは、「美」という偏見に保護されてきた美術・芸術を開放することによって成り立つところのビジュアルを意味している。だからこそ森菓のエンゼルマークやひとつぶ300メートルのグリコマークをも研究の対象となるのだ。

この講義の端的なテーマは、「バカの見方」、「ボケの見方」、「パーの見方」という図像対人間の3つのスタンスである。詳しくは一読されたし。
(1993.1.29)

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