ノンフィクション

12 juin 2014

東郷和彦『北方領土交渉秘録』

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前回に続いて高田越えの話なんだけど、128安打を4年間で打つとすると1年春から出場してシーズン平均16本のヒットが必要になる。おおよそであるが16本打てば打率は3割を越える。つまりフルシーズン出場して3割を打たないと高田越えはできない計算になる。鳥谷の1年春は10安打、上本博紀が15安打。まずまずのスタートではあったが、これでは届かない。
そんななかで今注目されているのが明治の高山俊だ。前年日大三のトップバッターとして夏の甲子園優勝に貢献。デビューシーズンに20安打を放って、ベストナインに選ばれた。
2年秋を終え、62本。そして3年春19本、5季終了時点で通算81安打。これはもしかすると、と期待を持たせる。
高山に期待できるところは単にすぐれたバッターであるとか、足が速いとか大舞台での経験が豊富であるとかだけではない。彼がいちばん恵まれているのはライバルたちだろう。
明治の同期にはチャンスに強い菅野剛士(東海大相模)や意外性の男坂本誠志郎(履正社)らがいて、入学当初から切磋琢磨できた環境があった。横尾(慶應)、畔上(法政)、吉永(早稲田)ら元チームメートの活躍も刺激になる。さらに同じく高田越えをめざすライバル大城滉二(興南~立教)の活躍も見逃せない。ちなみに大城は2年秋を終え、60安打。今季16本。通算76本で高山を追いかける。
そういえば以前北方領土のことを調べようとして国境問題関連の本をまとめ読みしたことがあった。この本はそのときの一冊。今となってはなかみを思い出せないが、日本とロシアの交渉が再開されると少しだけ思い出す。本を読んでおくということはこうしたこと、つまりいずれ何かの役に立つかもしれないということだ(たぶんそれほど役に立つとも思えないけど)。
いろいろトータルに考えてみると来年の秋には東京六大学野球史を塗り替える21世紀の記録が打ち建てられるかもしれない。

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06 mai 2014

野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』

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昨日閉幕した世界卓球団体。
日本チームは男子銅、女子銀とその健闘は称えられるべきではあるが、その一方で相変わらずの中国一強に対して次につながる収穫があったのかどうか。準決勝を突破した女子は挑戦権を獲得したものの、男子はドイツに敗れ、対戦すら叶わなかった。アジア、ヨーロッパにも強豪国が多い中でのメダルはたしかに健闘だろうが、今大会がこれからの卓球世界地図を刷新する礎となったかどうかは甚だ疑問だ。
テレビ中継では決勝の女子中国チーム以外、中国卓球をほとんど放映していない。世界最高水準のレベルが来日しているのに日本のマスコミや卓球関係者は何を考えているのだろう。中国の強さを広く紹介することで日本の卓球との差を認識し、共有することがその仕事ではないのだろうか。マスコミ報道が徹底的に中国卓球の強さの秘密に迫ることで視聴者も日本卓球に対する見方が当然厳しくなるはずで、こうした裾野のファンのレベルアップが日本卓球のレベルアップにつながっていくという見方も大げさではあるまい。
たとえば男子決勝ではドイツのティモ・ボルが張継科(チャンジーカをチョウケイカと呼ぶのもいい加減やめたらどうか)に一矢報いたが、こういう試合はやはり放映するべきだったろう。なぜボルが勝てたのか、張継科はどう攻められると弱いのか。水谷や丹羽にボルと同じ戦い方ができたのか。マスコミ、ジャーナリズムも一体となって戦わなければ正直言って2020年を過ぎても日本は、あるいは世界は中国に勝てないだろう。そうした気概を彼らは持っているのか。
この本は64年のオリンピック東京大会を支えた人々を紹介している。グラフィックデザイナー、警備会社、ホテル料理長、コンピュータ技師など。アスリートたちの下のレイヤーにスポットを当てた作品だ。彼らは決して縁の下の力持ちではない。東京オリンピックという戦後最大の舞台で活躍した主役たちである。
それにしても中国チームのゲームをほとんど放映しなかったのはビートルズが来日したのにドリフターズだけしか中継しなかったみたいなもんだ。


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24 février 2014

杉山隆男『昭和の特別な一日』

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どうにも滞りがちなブログではある。
人なみというにはスローペースすぎるけれど、本は読んでいる。人なみに感想を抱いたりもする。それを書くのが億劫になっているのはたしかだが、EVERNOTEに抜き書きもしている。ブログにのせる用の写真も撮っている。
なのになんで滞っているのだろう。
そんなことを考えてもいた仕方ないので、これは老化ということにしておく。
つまりインプットとアウトプットのバランスがよくないということだ。じゅうぶんな栄養を摂っておきながら、その利活用がきちんとなされていない。つまり無駄にぜいたくなものを飲み食いしておきながら、身になっていないということか。忌々しき事態である。
さて、しばらく書かないでいるうちに都立小山台高が21世紀枠で春のセンバツ出場を決めた。調べてみると甲子園出場は品川区の高校として初の快挙である。もちろん都立校としてもはじめてのセンバツだ。
そういえば昨年の夏もブログをさぼっているうちに都立日野高が西東京大会の決勝まで駒をすすめた。ブログをさぼると都立校が活躍する。そんな因果関係がもしかしたらあるのかもしれない(いや、そんなはずはない)。
杉山隆男著『昭和の特別な一日』を読んだ。以下のようなメモをとった。

銀座の都電最後の日、横浜に原鉄道模型博物館をつくった原信太郎は和光ビルからムービーをまわしたそうだ。中野ブロードウェイの建てた宮田慶三郎。歯科医から不動産事業に乗り出し、新宿御苑にエンパイヤ・コープ、原宿にコープ・オリンピアを建てる。乃木希典の土地も中野ブロードウェイのあたりにあった。壷井栄の家は鷺宮。白鷺1-18?オリーブ橋?東中野柏木団。

要は市井の昭和史ということだ。歴史は陽のあたる場所だけのものじゃないということだ。それはさておき原鉄道模型博物館はぜひとも行きたいものである。もちろん甲子園にも行きたい。

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06 avril 2013

秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』

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かなり以前のことだが、プロデューサーのK君が根岸の米軍住宅で車のCM撮影をした。
その敷地内では車は右側通行、法律もなにもかもアメリカ仕様になるらしいことをそのとき聞いた。要するにアメリカでロケ撮影したようなコマーシャルを日本でつくったというわけだ。
そんな施設が東京にもあった。
歴史というものにそれほど首を突っこまなければ意識しないような場所がいくつもある。
日比谷の帝国ホテル前を歩きながら、ここは占領軍の将校クラスの宿舎だったんだと言われても、先の大戦や終戦後の日本にさほど関心がなければ、へえ、そうだったの、で済んでしまう話だ。代々木公園で遊んでいて、ここは東京オリンピックのときの選手村だったんだと言われるとかすかにその当時記憶のある世代には多少興味関心が生まれるが、それ以前はワシントンハイツと言ってね…、みたいな話になるとやはり、へえ、そうだったの、で終わってしまう。
東京の渋谷・代々木一帯に広大なアメリカがあった。
そのことを強く知ったのは山本一力の自伝的名作『ワシントンハイツの旋風』だ。たしかにそれを読んだとき、「代々木公園はずっとずっと昔から、だだっ広い公園だと思っていた」と書いている。もちろんその後もワシントンハイツの存在は気にはなっていたが、なぜ代々木だったのか、そしてどのようにしてこの地は日本に返還されたのかまで知ろうとも思わずにいた。渋谷・代々木だけでなく、東京近郊のいたるところになんとかハイツという施設が存在していた。子どもたちが小さかった頃よく遊びに連れて行った練馬の光が丘公園はグラントハイツだった。
ワシントンハイツの返還が決まったのが61年11月。日本側が全額移転費用を負担するという条件だったという。オリンピック村の完成は64年8月で、『オリンピックの身代金』の島崎国男が労働者として働いて場所でもあった(というのは本の読みすぎか)。
表参道の書店でこの本を見つけた。ページをめくってみると、その本屋からストーリーははじまっていた。

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26 janvier 2013

村上春樹『アンダーグラウンド』

地下鉄サリン事件のあった1995年3月20日、僕はどこで何をしていたのか。

3月20日(晴)
連休の谷間だったが、今朝地下鉄内にサリンが仕掛けられ、その猛毒で大勢の乗客が死傷するという事件があった。テロリストによる無差別殺人事件と見られている。
今日もKは会社に来なかった。Kが会社に来ない度にSさんから小言をいただく。弱ったものだ。

当時はこまめに日記をつけていた。
その前日は日曜日で近所にできるマンションのオープンルームを見、その後光が丘に買い物に行ったこと、マクドナルドでダブルチーズバーガーを食べたことが記されている。そんな大事件が翌朝起きるなんて思いもしないで。
文中に登場するKは僕の隣席に座っていたコピーライターで当時から演劇の世界では少し名の知れた男だった。当時は仕事が合わないのか、芝居の方が忙しかったのか、よく無断で欠勤していた。そのたびに顧問であるSさんから、おまえがしっかり管理しろと怒られたのだ。
その翌日は春分の日だった。僕は秋葉原まで修理に出していたマッキントッシュパワーブックを取りに行ったらしい(らしい、というのもまったく記憶がないのだから仕方ない)。その後、姪の誕生日が近いこともあり、本屋でジュニア朝日年鑑を買い、手紙を添えて姉に送ったり、家でシュウマイをつくったり、知合いのプロデューサーにもらったチケットで映画「マスク」を観たり、1995年3月の終わりは、よくある会社の年度末のように忙しく、あいまいな時間のなかであいまいに過ぎ去っていった。
地下鉄サリン事件がこれほどまでに大きな後遺症を残していったことなど知る由もなかった。

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14 octobre 2011

中村計『佐賀北の夏』

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2006年の甲子園は早実対駒大苫小牧の熱戦に沸き、2007年は公立佐賀北の大逆転劇で盛り上がった。ついこの間のことのようだけれど、もう4年も5年も昔の話だ。
佐賀北の捕手市丸と広陵の三塁手土生の両校の主将は早稲田に、広陵のエース野村は明治に進んだ。それぞれ東京六大学野球の注目選手に成長した。
それはともかく、先週末左奥歯の根っこのあたりが痛み出し、草加で歯科医をしているK先輩のもとに駆け込んだ。同じ箇所が以前も痛んで治療したことがあり、慢性化しているのではないかという。ちょっと無理とか無茶をして疲れがたまると症状が出るのだろう。薬ももらって、週明けには痛みが和らいできた。
固いものが痛みに障るので週末はお茶漬けとかもりそばばかり食べていた。カップスープにパンを浸して食べたりもした。歯が痛いというのはかくも不便なことなのだとあらためて実感する。
話戻って野球であるが、高校野球がはじまると熱心に公立校を応援する人がいる。横浜に住む友人のKもそのひとりだ。今夏は習志野の試合を甲子園まで観にいったそうだ。そういえばKもやはり都立校出身だった。
東京では公立校が全国大会に出場するなどよほどのことがない限りあり得ない。人材、環境に恵まれた私学とは圧倒的な差があるからだ。地方に行くと案外その差が小さいのかもしれない。別に差別するわけではないが、佐賀県のようなところでは。
佐賀北は決して強いチームではなかったが、監督以下一丸となって全国大会で「勝てる」野球を実践した。このことを克明につづった一冊である。

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21 mai 2011

田家秀樹『70年代ノート』

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関東学生卓球リーグ早稲田対明治戦を観る。
明治は世界選手権出場の主将水谷が欠場。早稲田も笠原、御内が残っているものの昨年の主将足立がいなくなり、ダブルスが弱くなっている。しかも先週、埼工大が早稲田を4-3で破る金星を上げ、恒例の全勝対決ではなくなった。
トップで笠原、続いて御内が無難に勝って、早稲田ペースかと思われたが、明治3番手の平野(野田学園)が流れを変えた。ダブルスは平野・神(青森山田)の1年生ペアが笠原・板倉組に逆転で勝利。その流れで岡田(愛工大名電)、神と1年生3人で4ポイント連取し、見事全勝優勝を飾った。
明治の1年生はそれぞれ他校の新人にない勢いをもっている。しばらく明治1強時代が続くのではないだろうか。
先日読んだ赤瀬川原平『東京随筆』同様、この本も毎日新聞に連載されていたものだ。
以前、田家秀樹の『いつも見ていた広島』という吉田拓郎を主人公にした小説を読んだ。70年代といえば個人的には吉田拓郎である。どうしても拓郎中心に音楽シーンの動きを見てしまうが、この本は特定のアーティストに偏ることなく“70年代”という時代そのものを浮き彫りにしようとしている。
著者も書いているように激動の10年を駆け足で通り過ぎていった印象は否めないものの、次々に押し寄せてくる70年代のアーティストたちの挫折と模索、そして成功が凝縮された一冊である。たしかに新聞連載時には次週掲載が待ち遠しかったが、こうして単行本として読むと実にはかない10年だったのだと思い知らされる。
はかなくも濃密な10年。かすかな記憶をたどって、当時の自分をふりかえるとちょっとせつない気持ちになる。

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23 avril 2011

吉村昭『関東大震災』

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JR総武線を下底に蔵前橋通りを上底にして、隅田川と清澄通りにはさまれた台形のゾーンには東京の災害の歴史が集約されている。
両国駅の北側には国技館と江戸東京博物館が並び、その図形に安定感を与えている。国技館の先にあるのが旧安田庭園。東側の辺に位置する日大一高と対称をなす。さらに北に行くと安田学園が横網町公園と向かい合っている。
横網町公園には東京復興記念館や東京都慰霊堂があり、関東大震災、東京大空襲による下町の痕跡を現代にとどめている。高校時代になんどか安田学園を訪れたことがあるが、その右手に広がる公園はいつも木々が鬱蒼と生い茂っていて、陰鬱な印象があった。子どもの頃、毎年夏休みを千葉の千倉で過ごしたぼくにとって、両国は東京と田舎の境であり、もとより神秘的な町だったからなおのことだ。
吉村昭でもう一冊。
先の東日本大震災は規模の大きい地震に加えて、津波と原子力発電所の被災が災害を巨大化している。ふりかえって大正12年の関東大震災では火災が大きな要因となった。それもその日の気象状況がかなり影響している。おそらく前線の通過があったのか、ただでさえ燃え広がりやすい東京の下町に大旋風が巻き起こったというのだ。
また今回の震災でも再三取り沙汰されている風評被害であるが、コミュニケーションツールが未発達であった当時も同じようにあって、悲惨な事件の犠牲者が続出した。さらに下町は地盤が弱く、山の手は比較的固いことも含め、当時も今も日本という国も日本人もそう大きく変化を遂げていないことがよくわかる。
地震を科学する試みは古くから積み重ねられている。人類はいつの日か地震を乗り越えることができるのだろうか。

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16 avril 2011

吉村昭『三陸海岸大津波』

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吉村昭は卓抜した取材力と冷静に綴る文章で史実を克明に記す作家だ。この本は明治29年、昭和8年、昭和35年に三陸海岸を襲った地震を多面的に記録したすぐれた作品である。
ぼくは大津波というものをSF映画的なイメージでしかとらえることができなかった、今まで。それを今回テレビのニュース映像で視ることで、その被害の甚大さをあらためて知ったもののひとりである。そしてこの歴史的な事件をしっかり焼きつけておく必要があると感じた。
先日、仕事仲間との昼食会の折(そこではたいてい食後に最近読んだ本が話題になる)、おいしい鯛茶漬けをつくってくれたSさんがすすめてくれたのがこの本だった。吉村昭は以前、『羆嵐』でドキュメンタリーのすぐれた語り手あることを知っていたので、その帰りに買い求め、一気に読み終えた。

 海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の
 余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受ける
 のに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条
 件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸
 を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。

吉村昭の予言どおり、津波はやってきた。それも過去の教訓をも突き崩す勢いで。
東日本大震災の被害状況はいまだ把握されていない。いずれ21世紀の吉村昭が今回の津波の被害を克明に記す日が来るだろう。

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29 janvier 2011

山際淳司『スローカーブを、もう一球』

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選抜高校野球の出場校が決まった。
全国10地区から何校か選ばれるわけだから、だいたい昨秋の地区大会の上位校が出場する。その枠内では“選抜”は難しいことではない。議論されるのはたとえば関西地区のように6校を選ばなければならない場合のベスト8ののこり4校から2校を選りすぐるときだろう。京都成章などは僅差で準々決勝敗退だったので評価が高いというわけだ。加古川北も優勝した天理と好ゲームをした点が評価されている。同じようなことが関東にもいえて、ベスト8から前橋育英が選ばれた。
1980年頃の本を読んでみたいと思った。
『Sports Graphic Number』が創刊されたのが1980年。それまでのスポーツ紙の延長線上にあったジャーナリズムとは異質なメディアの誕生だった。スポーツはそれ自体がドラマであると同時にメディアにおいてもドラマになった。
おそらく山際淳司はその先鞭を着けたひとりだろう。
こうして30年の時をへだてて読んでみると当時からすでにスポーツを志す若者たちは“さめていた”んだなと思う。ドライで割りきりのはやい若者たち。おそらくぼくたちもそんな風に生きていたに違いない。
同時代に生きた選手たち(江夏は世代的には上であるが)は今ごろ何をしているのだろう。
1980年頃の本。そこにはなにがしか昭和の残骸が残っているような気がする。
そんなにおいに惹きつけられてやまないのである。


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